「迷い」
最近、テンションが下がることが何回か続いて、へこんでいる。
内容としては、
・試験に落ちたことと
・不本意な出費が発生したことと
・写真のピンボケがひどいこと
の3つで、その他に細かくちょいちょいある。
上の2つが非常に自分の中で重たくて、写真がボケてて、もうね。ため息というかね。
なんか、変な息でそうだったもの。というか、出てたね。ボワっとしたやつ。
で、なんでこんなに気持ちが下がっているんだろう?と考察してみると
①現状に不満で試験をきっかけに何かが変わるかなと思ってたこと
②自分の今持っているお金の価値と、その出費の価値に不満があると思う
③とどめ
だと考えたんだが、どーも腑に落ちない。
もう少し出来る気がするし、なんかこんな事になったのは、他に理由があるよーな。
で、こんなモヤモヤしたテンションの低い生活を少しずつ営んでいたんだが、
ある大人に「それってさ、『迷い』の表れなんじゃない?」と言われた。
『お前には迷いがある』って、あんた、カンフーの達人かジェダイの騎士か!?
と思ったり思わなかったりしたが、(うん。思ってません)
かなり、ドキっとしました。確かにそうかもしれない。
真剣に挑むものがなくて、人間や活動の関係性とか、やりたい事とか、自分の居場所とか
今、流されて得た周りにあるものに違和感を感じているのかもしれない。
自分の関わるものを見定めて、整理して、もう少し積極性を持って関わる事が必要なのかも。
この前、場の空気や会話の流れを全く理解してなくて、大振りで空振っている人の姿を見たから
今なら出来る気がする。
うん。アレは、全く人の気持ちを理解していなかった。
善意でやってたんだけどね。ここ最近見たことない、全くかすらない見事な空振りでした。
善意のエネルギーってやつぁ、凄いぜ!
という事で、もう少し動いてみよう。何かを。
と、戒めなので、こんな恥ずかしい事を書いてみる
遊び と 瞬 間 と 感 動
今日は、いい日♪♪
だったと思う。
前に、『遊びの質』みたいな事を考えていたんだけど、
今日は、『質の高い遊び』への流れを感じた。
毎週関わっている小学生と、お魚釣りに行きました。100%に近い確立で釣れない装備で。
で。案の定、釣れなくて、釣ろうと考えていた子どもはガッカリしていたんだけど
もの凄く!ものすごーーーく!!そこには学びや遊び(遊びは学びなんだけど便宜上分ける)が存在していて、
関わっていて、ワクワクしたし、その瞬間の面白さったらないね。
たぶん多過ぎ&自分のレベルが低くて、取りこぼしているのも結構あるんだけども・・・。
そこで、あー、大人の役割って、成長する上で手に入れたしょーもない知識で、子どもが提案した無理そうな
課題を奇跡的に成功させるために、その奇跡の確立をあげることなのかなーと思いました。
併せて、大人が子どもに関わるメリットって、この奇跡を期待するワクワク感とかその感動とか、眩しさみた
いなもんかな。と思った。
ちょい。つーか、結構やる気でたぜ。18日への。
子ども純粋説や子どもが大好き子ども守り隊(テキトーに分類した名称)とか嫌いで、子どもの写真を載せてる
と同一視されそうだから、あんまし子ども写真は載せないけど、今日は感動したから搭載します。
『公共』→ 『創造、異界』 ○ ↑ ↑ 『価値観』
この前、同年齢ぐらいの人たちの話を聞いていたんだけど、なるほどなー。と思うことがあって、
最近読んでいる、セルジュ・ラトゥーシュの『経済成長なき社会発展は可能か?』とか
この前行った、子どもの虐待防止学会とか、なんか考えている事が『公共』の話とリンクしてることがあって
『公共』というものを考えている。
その同年齢の人たちは、最近毎週参加している、学校でのプログラムの主催者たちでアーティスト系の
人たちだった。
僕は、あんましアーティストと意見が合わないという、なんか知らないけど、そーゆう自信があった
んで、関心できる話をしている時に、自分の頭の固さと、人はよく話さないと分からないと思った。
今回の話は、新しい公共を作り出すのは、ある意味人類の原点回帰みたいな。という何か壮大な話だった気
がする。あの時の話をすごーく乱暴に要約すると、
①ある事業を評価ベースや『事業』として捉えている時点で、従来の公共圏を作っているものになってしまう
②従来のものから脱却した公共圏を作成しようとするならば、予測不可能性を含むことが不可欠である
③予想不可能性なものは、現在の模倣じゃ成立しないから、そこに『創造性』『飛躍性』がスパイスとして必要
④『創造性』や『飛躍性』の方法として、宗教やアートという手法が有効
みたいな話だったと思った。たぶん。
宗教の異界性とか、理解不能なメディアによって、構築されている、なーんかあやふやな公共の場みたいなもの
があって。それが公共圏みたいな? ん?なんか言ってて怪しくなってきた。
まあ、何が言いたいかというと、
それって、『価値観の転換の話じゃね?』
と思ったってこと。もしかしたら、軸がズレてるかもだけど。
そんなこんなで、経済を勉強しようと思いました。
■
今日は、自分以外のいろんな人の気持ちが落ちている気がする。
というか、自分がハイテンションなだけか??
ある問題があって、それが出来ない人がいて、それに対する怒りを感じる人がいて、
それに当たられている人がいて・・・。
怒っている人と当たられている人の関係は、この状態では、まあ不公平なんだけど。
出来ない人と怒っている人の関係は、ビミョーだ。
ただ、苦手なものを出来ない時に、怒りをぶつけられるのは、すごく辛い事だ。それは知ってるし、
ちょっと不公平な気もする。
その不公平ってのは、人間の能力や性格の問題にも関わるような気がするんだけど・・・。
だって、平気でそれが出来る人が一生懸命やって出来ない人よりも報われるのはどうかと思うし。
『誰だって、やれば出来る』わけじゃないのが、歴史的に証明されている。
その人が出来る事・頑張れば出来る事をやるのが、一番の理想なんだけど、そーもいかない。
社会人として、小規模の集団として、大企業として、新米として、成果をあげていない個人として
その場で○○として、やらなきゃならない。って事が実際には、たくさんある。
まあ、それにつぶされるのは、不幸だと思うんだけど・・・。なんだかなー。
話がちょーと変わるけど、落ちている人が眠る時、なんか特別な空気を感じるのは、考えすぎなのかな?
と思う。
昔、レクイエムフォードリームっつー、救いのない映画があって
まあ、個人的には映像のカットもカッコイイし、既存のキレイで道徳的な社会を「しょーもな!」
と思っていた青すぎて、見ているこっちが恥ずかしい少年だった僕には、何か共感できるものもあった
んだけど。
その映画のラストで、薬漬けでトリップしている人と、絶望して後悔している人と、これから不幸になる人
の3人が同時に眠るシーンがあって、なんか感動した記憶がある。
あの静けさと言うか、絶望や不幸というものと、眠るっていうもののあの関係って、なんなんだろうな?
動かなくなるのが「死」のイメージを醸し出すからかな?
で、こーんな軽く話しが展開するのは、やっぱり僕のテンションが高いからです。
いや、いいね。今度写真を飾ってくれる喫茶店。
『なんでもやっていいよ。』とか言うんだもの。
なんか、恩返ししなきゃと思いました。おわり。
「遊び」を腐らせるもの
最近、「かえっこバザール」がなんとなーく、つまんなくて、モチベーションがあがらない&
参加した後には、疲労感が残る。
理由として、
①「かえっこ」について、自分が関わっている地域での知名度があがったため、参加者が増えて、
自分も含め、スタッフがダラダラ過ごせないこと。
②かえっこのルールや仕組みを利用して、ポイントを稼ぎまくる子どもが増えたこと。
③しょーもない事を言う親が参加しはじめたこと
以上の3つがあると思う。これは、結構深刻でスタッフが「かえっこ」を運営することがストレスとなり、
「かえっこ」がなくなっていくような気がする。つまり、「遊び」が腐ってきているんだと思う。
この3つの問題は、「かえっこ」が相手にする「現実のルールやズルさ」ってやつが、長く開催している
中で入ってきたんだと思う。
①は参加者とスタッフのバランスの問題
②は楽しさと遊びの方法の問題
③は現実にある市場経済や個人主義の問題
この3つの問題に対処しないと、たぶん「かえっこ」はただの集客集めのイベントになると思う。
まー、それでもいーんなら、その形でやればいいけど。
で、この問題を「かえっこ」を遊びのままで自分がやるためには、どーやって解決しようか??
①は、スタッフを増やす、有給スタッフを入れる、場所を小規模にする、告知を少なくするなどがある。
②は、ポイントを使って遊べるワークショップを作る。ポイントで交換できるものの上限を決めてしまう
③は、警察を作って「遊びなのに空気読めないで騒ぐ大人」を取り締まる。ルールを明確に提示する
(例えば、これは遊びなので、1万円のおもちゃだとか、箱つきだとか、しょーもないこと言わないで
くださいみたいな)
こーゆう問題の解決には、『排除』という強力な道具を使わないように考える必要があると思っている。
だから、③の解決については笑える要素をどっかに入れないと、救いのないものになる。
もし、『排除』の武器を使ってしまった瞬間に『遊び』ではなくなる危険性がある。
時間が経つと、その活動やイベントが変質し、予定していたものと違うものになるけど
それは、スタッフや運営側が『クリエイティブ』や『楽しさ』で改善していくことが必要だと思った。
なんで、今は『かえっこin自分が関わっている場所』に関わるスタッフや場の成長期だと思う。
やるからには、考えなきゃな。
文章がめちゃくちゃなのは、いーや。
妖怪見聞とチェルノブイリハート
今日は朝、何故かもち米を買いに行って、妖怪見聞観て、チェルノブイリハートを観て過ごした。
えーとね。映画つまんなかったなー。というのがオチ。
あの偽善者っぷり。ひどいな!
私たちは、悪と戦わなくてはならない!!とか言いつつ、なに食ってんだよ?
映像でキレイな服着てたじゃないか?あんさん、ズルイ事したことないんかい?
なーんて、高校の時は書いていたんだが、今はちょっと、傾向を変えて、映画や展示で改めて
気づいたもの・・・。
妖怪見聞でも感じた事だが、現実を解釈する時の科学を根拠にした説明のしょーもなさを感じた。
妖怪とは、説明不可能な現象や教訓の意味合いで『妖怪現象』または『妖怪』を用いて複数の人間が
ある現象を理解していた。
例えば、川で溺れるのを防ぐための河童とか、山で聞く音を天狗の仕業にしたとか
実証可能なものを信じて、それ以外をいい加減なものにする意味があるのかと放射能と妖怪で感じた。
危険だと思うのなら、科学的根拠が実証されていなくてもやめるべきだし、
面白いんなら、意味がなくてもやってもいいと思う。
あと同時に考えたが、何かどーしようもない事態になっている時、立ち向かうには
①絶対的な正義を信じて突き進むか
②その事態に対して、強い怒りや恨みを持って戦うか
などの強烈なモチベーションがないと立ちすくんでしまうなーと思った。
今日の映画は、カットも、インタビューもテロップのヒジョーにうざくて、映画の出来としては
よくなかったが、まあ別にいっか。
&今日、出演した人には、ヒジョーーーーーーーーに失礼だが。
社会的問題を扱うイベントがこける要因の一つに、変な人の演奏とか感想とか、ポエムとか
そーゆうのがあると思った。←本当にすいませんね。だって、そう思うんだもの。
うん。アレはないわ。
大子への旅part1とぼちぼちワイン道2、3
この前の水曜日に、大子へ行ってきた。当初の予定では、温泉だったが・・・。
うん。結論から言ってね。入れませんでしたよ。
時間なくて。
電車一日に5本しかないしー、バス1時間に1本あるかないかだしー。
公共交通機関の状況悪すぎだろ!
まあ、すっごい出会った人たちよかった。
駅降りたら、フィリピン人だし。鮭を待っているおばさんいたし。線量図っているなぞのおじさんいたし、
りんご狩りの場所はタダでりんごくれるし。陶器屋の人もわざわざ電話してまで温泉調べてくれるしな。
今度は泊りか、車で行こう♪
商店街が緩やかに(どこぞの町おこしみたいな、アーティスティックで痛々しいもの又はド派手でダサいもの。
マスコミ呼んでしょーーもないものと違って)活気付いているのも気になるし。
個人的にかなりいい感じだ。大子。
&ある人間の評価かなりあがりました。北海道行こうかな。
おまけとして、ぼちぼちワイン道2、3
すでに3回目までで、持病の持ち前の同じことを続けられない病が発生しており、更新が危うい。
まあ、取り敢えず2、3本目は更新。
2本目 カーラ カベルネソーヴィニヨン ライトボディ?? チリ産
やまやで500円。 えとね。これね。まずい。
納得の500円というか、500円でもいりません。
3本目 TERAPURA チリワイン メルロー
チリワイン専門店ショップで箱買い、バラバラ5本で4500円ぐらいだから、
900円ぐらい??
これね。すげーうまい。なかなか良しというか、良しだと思う。